テーマ 『日本での中医学を考える』

※以下の拙論は《TAO針灸療法第11号、特集日本での中医学を考える》に掲載 されたものであり、それには編集長による丁寧な注釈が入る
 中医学とはなっているが、日本の漢方療法の現状と問題点と今後の課題を述 べている。
但し少し乱暴な言い方の箇所もあるのは、漢方の雑誌に載ったのではなく、針 灸の人たちの雑誌に掲載されたから言いたい放題なのだ。




一風堂漢方研究会 須藤ハジメ

経緯
 今回私のような若輩者に、このような身にも余る立派なテーマを頂戴したこ とに大変恐縮している次第である。
 これから漢方医療とはどうなるのだろうか?
楽観的なら亀の話ではないが四千年、二千年続いているから、明日にこけるこ とはないだろうが。
ビルゲイツが「たとえウインドウズが無くなっても、PCゲームとインターネ ットは残るだろう」と言ったことは多分に示唆的である。
 即ちウインドウズがOSであるように、漢方もまた薬草や鍼灸というハード ウェアを使ったソフトウェアなのだ。運用にあたりこのソフトウェアはウインド ウズ98のように難解で重く複雑すぎる。((最近そうは思わない)まあ漢方の世 界にリナックスは登場しそうにないが)
 薬用植物の応用は古代からあったはずだが、漢方という使われ方から、主流 は西洋医学の有効成分の抽出という使われ方に移行し、その後には多くは有機合 成が可能となった。
この手の研究は今でも盛んに行われているのは諸氏の知り得るところである。
だからもう漢方というのは既に主流ではなくなってる。とはいってもやっぱり 西洋医学との比較から見直されている点もあり、ルネッサンスなのかもしれない 。
 だだかなり厳しい状況だ。

先ずは、話を進める前に私の立場や置かれている状況を述べたいと思う。
 私は薬剤師で、不況をもろに受けるしがない市井の漢方薬局(現在、山梨県 中巨摩郡白根町在家塚)のおやじであり、これは12年程続けている。湯液の人で ある。
また一風堂漢方研究会という中医学の勉強会の主催者であり、これは14年程続 けている(東京の虎ノ門、月一回)。
ここ3年ほどは「山梨県八ヶ岳薬用植物園」の相談役兼講師というのもやって いる。
拙著に《中医学講義》という中医学の教科書があり5年前に出版している。
他の執筆は某漢方雑誌に「古典にみる糖尿病研究」と言う連載も書かせてもら っている、《内経》や《史記》から始まって、ちなみに今は《景岳全書》をやっ ているところである。 以上から、客観的な立場としては漢方の臨床家、古典の 研究者、薬用植物の啓蒙者、そして最後に冒涜的な言い方かも知れないが、中医 学を教えている。(人にものを教えるという認識は冒涜的だと感じている)
また初心者の頃は、古方でおなじみのB塾に2年間ほど通った経験もある。
さて中医学と言えば、他の流派からは空理空論を振り回す怪しげな輩と白い眼 で見られることもあるが、この点からも歯に衣を着せぬ現実的な姿勢で話を展開 するつもりだ。

1.現状
@)レベルの低さ
 日本の医療における中医学の役割が重要になってきたということは誰もが認 める点でああう。近年、中医学に移行した漢方メーカーは少なくない。
ちなみに「小柴胡湯の副作用」という濡れ衣事件からも明らかなように、中医 においては少陽病が弁証できた時にのみ「小柴胡湯」を1-2-3服用いるのみで、 西洋医学的な漢方薬の使われ方として何ヶ月も肝炎などに用いることはない(某 Tメーカーの策略という点も見逃せないが、当時は医者もいい処方だと云ってよ く小柴胡湯の話が出たもので、私は拙著にも述べたが、間違っていると批判して いた)。
 厳密に言えばストレスなどの肝気鬱結には「小柴胡湯」は用いられない、「 四逆散」を用いるべきである。(「小柴胡湯」とは元々は少陽病だから胆経に働 く方剤であり、肝臓の病の処方ではない。)
 前置きは終えて、とはいっても中医学は一部の熱心な臨床家は勉強していて も、多くの臨床家においては、実際の指導的立場はメーカーのプロパーさんだっ たりして、漢方に造詣がない者が薬を出すということが多いのが現実である。( だから小柴胡湯の副作用事件が起きたのだ)
 次の観点はこれもごく現実的な話だが、漢方も含めて医療自体が経済行為で あるという側面である、ここで言う医療とは保健医療だけを言ってはない。極限 られた世界の話ではない。実質的な意味での医療だ。(小柴胡湯は薬価が高いか らメーカーは推奨したのだ)
コンビニで売っているドリンク剤も医薬品であるなら薬理作用があり、うまく 使えば医療となるのだ。あるいはハーブも健康増進の効能があり未病を治せば医 療である。
 私の目的はこうだ「病を治そう或いは健康を維持しようとする人々の手助け として、漢方療法と薬用植物を用い、提供している」または「好きで漢方をやっ ている」これはずつと変わらない事実だ。
しかし多くの人は「須藤さんも真面目にやっていても儲からないから、どこか の危ないオバサンとでも組んで儲けたら」とかご丁寧にアドバイスをくれたり、 ひどいとそれは欺瞞だ偽善だと謗るが、これは性格だから変えようがない。
 即ち漢方なんて真面目にやっていたら食うに困るのも事実だ。
様々な話を聞けば、やはり純粋に漢方だけで食っている人々は少ない、看板は 漢方でも中身は異なるもので食っているようである。
 しかし、とはいってもこれも最近感じていることだが、消費者のレベルの低 さを感じることも多い、薬事法に引っかかりそうなことが沢山書いてある雑誌や 折り込みチラシをホントのことと信じる一般大衆であるから、漢方という看板に も容易に騙されるだろうと想像がつく。見識眼が備わっていないのだ。
肝臓に良いと言えば鬱金を食らい、何となくドクダミ茶を飲むのが、健康にな る方法だと信じてやまないのである。(カラスの勝手でしょ)

 さて、それでは昔からの日本の漢方の専門家と呼ばれる人々は優れていたか ということだが、残念ながら私はそうでもないと思う、というのは彼らの著書に ある症例、治験例を読めば明らかで、症状が改善されないからと言って例えば高 血圧に「八味丸」「黄連解毒湯」「抑肝散」「炙甘草湯」「柴胡加龍骨牡蠣湯」 など場当たり的に処方を変更して、当たりの処方を探すような治療法では、これ はもう弁証ができていないということだ。
こんなことをやっていては私のような弱小漢方薬局は致命的な経営の危機に瀕 するであろう。
勿論、それ以前に高血圧の漢方薬という考え自体も一考を要するだろう。

病名漢方
このような使われ方は、病名漢方と言い卑下するものである。
(唯、古典はすべて病名から分類されるからあながち間違いではないが、西洋 医学の病名ではない)
 糖尿病に関しても日本で実際によく使われる処方は「八味丸」と「白虎加人 参湯」だからこれは《金匱要略》そのままであり、《千金方》などのその後の多 くの古典、否、漢方の消渇治療の発展は全くの無視である。もう読者は私が何を 暗に批判しているかはお分かりだろう。

 閑話休題
以前仲間の立場の、とある薬学博士からこんなことを言われたことがある。
「漢方が今まで衰えたのは何故だ! それは漢方薬を効かせられなかったから だ。」
私は反論して。
「それは制度の問題だ、明治16年の医師免許の制度で、漢方医療が国家的に否 定されたのだ。」と言いつつ、彼の云うことにも真理があると感じていた。
乃ち、漢方薬も今以上に有効性と適正使用を向上させなくてはならない。
このことに関しては、個人的な腕の向上以上に、平均的なレベルの向上も大切 である。
とは言っても世の中、藪の方が多いのも通例で、これも古典には必ず「末世の 者ども」などと非難されている。

2.中医学の良いところ
@)《内経》重視=概念規定の明確化
 拙著出版の頃、叫ばれていたことでもあるが《内経》を重視して、そこから 概念規定や五行や陰陽の原理(理論や学説も)を学ぶという姿勢である。
例えば、五行の相剋というのは正常な抑制関係であり、一方病的な抑制関係は 相乗であるが、この区別は《内経》では厳密である。

陰と云えば物質存在であり、陽といえば働きである。これは陰陽の根本的な認 識で、人体なら陰分は肉体であり、働きは陽気である。(陰陽応象大論、易経も 参考となる)
 また肺を補う処方はあるだろうか?(無いではないが)、土生金の原則を用 いるから、治法は補脾となり「補中益気湯」などが用いられる。
これ以外には「精、気、血、津液、五臓六腑、器官、組織」の概念ははっきり している。
例えば「血」の生成に関しては《霊枢》に三カ所の記載があり、一つは「中焦 受気取汁、変化而赤、是謂血(決気30)」二つは「中焦亦並胃中、出上焦之後、 此所受気者、泌糟粕、上注于肺脈、乃化而為血(営衛生会18)」三つめは「営気 者、泌其津液、注之於脈、化以為血(邪客71)である。
これらは相互に矛盾無く血の生成を述べている。
 「臓象学説(陰陽応象大論29.五臓生成論10.五臓別論11.六節臓象大論9.な どに述べられているが要は、生命は五臓六腑を中心に生命活動を営むという認識 だ)」は極めて役に立つし、経絡理論も、病因に関する考えも無くてはならない ものである。
但し《内経》は漢方のバイブルだからと言っても一字一句まで信奉者になって はならない、というのは三焦は実在する臓腑ではなかったし、明らかに誤りもあ る、2000年後の今では首を傾げたくなることも書いてはあるから、賢く読む必要 がある。

 そして《内経》から《傷寒雑病論》を読むと、張仲景の考え方や概念がオリ ジナルでユニークなものであることが解る。これは仲景先生に限らず、各臨床家 の癖の範疇かも知れないが、それを見極められないととんでもない誤解をするこ とになる。
また臨床家により使っている概念(例えばA血とか)が各自で異なり、初心者 は誰を信じて良いのか困ってしまうということも良く耳にする。
乃ち漢方をやるなら参照ポイントとして《内経》を持つべきだと感じる。

A)四時陰陽
 私が中医学を本格的に習った、師匠と呼ばれる人物は織田啓成先生である。
老荘思想の継承者であり、織田先生の中医学の特徴はどこに見いだせるかと謂 えば四時陰陽の応用ではないかと思う。
《素問、四気調神大論2.》の応用であり、これにより織田先生は「花粉症」の 弁証に成功しているし、四季のスパンを人の一生(15×4×2、即ち60で還暦と言 う)や一日(15×24)に即応させることにより、各の時期の治療や病理を明らか にしている。
詳細は拙著に譲るが、陰陽変化は時間を意味することとなる。
 簡単には原則的に病は、始めは実熱証であり、時間が経れば陽気や陰分を消 耗して虚寒証に陥る。(六経の三陽病から三陰病に変わっていくという考え方か らも解る)
人の一生なら、何故アトピーは子供の頃だけ(15歳迄は木行で、木乗金だから )なのかとか、何故中年太りする(15n歳は土行旺する)とか説明できる。

B)症状認識と病因
 病を捉えるときにはその本質を探り、明らかにするのが肝要で、その中心的 な概念として「証」が規定されるわけであり。その行為は証を弁じるので弁証と 呼ばれる。
といっても、患者からの情報は四診からもたらせるもので、多くは病だから主 訴と呼ばれる症状を抱えてくるのが普通である。
証とは外から見れば、症状の集合であるともいえる。
だから主訴以外にも従訴からも、症状がどのような証と関連があるのかを探る のであり、例えば一つの頭痛という症状でも、原則的には陰陽虚実寒熱表裏の八 綱の分類や「臓象学説」や「気精血津液論」からのアプローチが必要である。
具体的には《中医症状鑑別診断学》という本のお世話になることとなる。
 その症状認識の蓄積が、中国では綿々と続けられて、今や膨大に量になり、 大変有意義な情報となっている訳で、これがなければ確かな弁証は不可能である 。
もともと臓象の意味は王冰によれば、身体の外部に出た変化が、五臓六腑の状 態を語るというもので、中医学が解剖などの物理的な手段に出なくても、生体の 内部の異常を外部に出た症状から捉えるという方法を採用することを宣言してい るのである。
 病因を語るには《諸病源候論》や《三因方》或いは今日の病因論を読めばよ いが、病因は証と常に対になる。(弁証求因)
何故なら、原因がないのに病という結果は生じないからで、西洋医学の場合に は病因を、科学の発展途中にあって未だに解明されていないとなれば、それは無 視して、対症療法を選ぶ、医原病や薬害の本質はこの点にある。
 
C)弁証と論治による治療効果の向上
 以上のことから、処方が当たる確率は高いと感じる。
弁証に関しての基礎理論の選択肢の多さがある。とても「八綱」と「気血水論 」だけでは弁証はままならない。
基本中の基本である「八綱弁証」から始まり「臓象学説(臓腑理論)」「病因 論」「気精血津液論」「四時陰陽」「六経」「温病学」などの理論は、多面的に 病の本質を明らかにする。
 次に論治に関しては、これは戦略的な要素が多いので画一的な結論が出ない 。(例えばこんな話〜同じ患者を幾人かの老中医に見てもらったところ、選ばれ た処方は皆異なっていた)まあ、教科書の治法は基本で、それを無視したり、理 解できないと言うのではお話にならないが。(また具体的な処方の段階では、こ の患者には地黄は使えないとかは顔を見れば分かるものだ。また地黄を使うと軟 便になる者と、便秘になる者がいるのも事実だ)


3.中医学の悪いところ
@)空論と分類に走り易い
 論理的に話を進めていく上では、付きものなのかも知れないが、事実の中に 間違った認識や仮定を含んだままだと、最終的に白いものを黒いものと言いかね ない。
例えば虚証なのに実証と弁証してしまうことは、真虚仮実を知らないならあり 得ることである。
 これは両刃の剣なのだろうが、論理的にすっきりしている点に中医の良さが ある一方、やっていることは観念論に近いから(症状から弁証する行為はその時 点では演繹的であるとは云えない)、投薬をして結果が出るまでは、正誤の判断 は付きかねない。
 但しここでちゃんとフィードバックが得られていれば自分の論理の証明とな り、正誤は明らかになるが、危害などの予期せぬことや関知しない事柄が生じた ら、お手上げになる場合が多い。
 そうなら、先ほどの処方を様々変えてみましょうというのは一つの解決策か も知れないが、論理的な裏付けのない医療行為も無責任であろう。(だから漢方 は経験主義などと言われるのかな?)
 また「証」をあまりに細かく分類することはどうかとも思う。
例えば浮腫むという主訴があり、細かい弁証では腎虚水泛証となる。これは本 質的には
腎陽不足で膀胱の気化作用が失調して浮腫むことだが、証としては邪実だから 実証に分類される。
しかし他の従訴に腰痛や腰から下の冷えや痛みがあれば、弁証は腎陽虚で、論 治は温補腎陽で、処方は「八味丸」で良いと考える。シンプルに本質を捉えるこ とだ。
乃ち無理矢理分類するのも、標と本を取り違えるおそれがある。

A)難しい
 ものの考え方や見方が、
 西洋科学の唯物主義(生命の本質は物質であるから、病は物質的な異常であ ると言う認識)、や
 物質還元主義(臨床検査のように生体の成分の変化が、病であると言う認識 、成分分析的な手法)、や
 分離と細分化(病とは部分異常だから、その部分のみを治せばよい、例えば 炎症は病的だから抗炎症薬で炎症を鎮めれば病は治る。何故炎症が生じたのかは 考えない、感染症はウイルスや病原菌によるものだからそれらをやっつける薬が 治療となる)や
 デカルトやモノーの機械論的生物観の延長(臓器移植など)に基づいた医学 、薬学教育を受けてきた者にとっては、《内経》の世界を自らのものとするには 大変な方向転換の努力が必要である。
 近代科学というのも一つの信仰であると悟ることができないと漢方の世界には入れない。(人は戦前の教育の ように、若い時に覚えたことにしがみつく)
東洋医学の世界では、まだ宗教と科学が分離していない、といっても西洋世界 の一神教の宗教を想起してはならない、東洋の宗教の神は究極的には自然界その ものである。
即ち世界観、生命観が含まれているのであり、当然老子の《道徳経》や《荘子 》の哲学観は色濃く反映されるから「恬憺虚無」の心持ちなのである。
だから、陰陽五行学説を原理とする医学を学ぶ必要と精神性を探求することが 求められる。

 唯物主義に対して、陰(肉体)と陽(精神と活動)のバランスが必要である と説くし、物質還元主義に対しては、元素の周期表ではなく色体表にある五行に 還元する方法があり、細分化に対しては生命は一つの小宇宙であり、自然界とは 分離している訳でなく相応性があると説く(相似象などともいう)。
生命は部分により成り立つが、相互に有機的な結びつきとバランスがあると説 く。
また病の症状とは悪ではない、生体が生体を病的な状態でも維持するために、 そのアンバランスをバランスさせるためのものである。
 この辺のことは西洋科学の反動から何となく受け入れられる時代となったが 、実際の勉強は結構骨が折れる。先ずは言語から、漢文は読まされるは、始めは 宇宙人の話を聞いているようなものらしい。この点病名漢方なら容易なのだろう 。
また実際に病の本質や病因を感じ取ったり、これに違いないと推測するという 行為は、甚だ感覚的であり、若しその能力がなければ、弁証に何時間も浪費する こととなる。

B)珍しい生薬と名前のない処方を使う
 個人的には、中医だからといって変わった生薬を使う必要性は無いと思う。 以前に凝ったこともあったけど今は、薬味は10以下、シンプルに削ぎ落とした処 方を心掛けている。
漢方処方の原点はやはり《傷寒雑病論》にあることは確かであり、《局方》以 降の何十もの薬味で作る丸剤の流れもり、《普済方》には61739の処方が述べら れている。
しかし実用的には中医学の教科書にある処方の加減程度で事足りるだろう。そ れよりも方剤配伍や生薬の効能、性質を知ることだ。
 またその場で生薬を組み合わせて、処方を作ることをやるのは特に中国の人 に多いが、これも反対だ。きちんと弁証しているのか疑いたくなるような内容も 多く見受ける。
即ち再現性がないし、他の人が理解できなければ普遍性がないのだ。

3.漢方も一つの科学ということ
 人体を対象として、一定の法則があり、その応用が有益で、再現性があるの だから、これはもう科学なのである。
世の中には科学とは実証可能なものであると信じている人も多いかも知れない が、医療に関して、病とは一人一人違うから、病名に対して漢方処方が決まって いるわけではなく、治療法も一人一人違うし、またその時間的にも相違があるか ら、厳密にはその他多くの治験で実証できましたとは云えないのである。(ほん とうの自然界を対象とする自然科学で実証するというのは結構大変な行為である 。)
勿論、自体の趨勢は西洋科学的手法で漢方薬を再評価(いやみを込めて)する のを漢方の研究と思いこんでいる人々ばかりだから、彼らにすれば実証可能なの かも知れない。
そして実証し損なって死人を出したというのが小柴胡湯の副作用である。肝炎 なら誰にでも使えるものではないのだ。
 だから中医学なりを学ぶ人たちには、西洋科学的なデータや研究というのは 鵜呑みしないで、参考程度に止めてほしい。(10年も経ったら90%は嘘だと暴か れるのが常の世界)その方法論を良く吟味してもらいたい。即ち「この病にこの 処方を使って有効だという最新の研究論文があり、貴方にもこの処方を飲んでも らいます」という安直な行為は漢方薬の適正使用ではないということを知ってほ しい。また研究者と臨床家は違うのだから危険を冒すことは慎重に。

4.教育
@)現状と問題点と勉強会
 この件に関しては、何となく14年間関わってきた訳であるが、真面目に考え 始めたのは最近のことかも知れない。
薬学教育にもいくつかの薬大では単位に東洋医学も含まれているようであるが 、その実体は知り得ていない。すなわち恐ろしいことに漢方や東洋医学の教育義 務は皆無なのだ。
 実際には医師、薬剤師とも実務では漢方薬を使っている。そして不適切な使 用が多い事実も患者さんや研究会の会員さんの話から良く耳にする。
最近のヒットは喘息の子供に五年間も「麻杏甘石湯」を投与し続けたもので、 確かに病名は小児喘息とあるからレセプトは通るなと妙に感心した。
それも当地では漢方薬を出す病院としては有名と言うから驚くばかりである。

 しかし世の中には良心を持った人々も多いから、そのような人は漢方研究会 や勉強会に積極的に参加して勉強する。
(山梨でもそのような声があるが、世話役になってくれる人物がいない、どな たか引き受けていただけないか(1999年8月から、山梨県薬剤師会本館でやって いる))
 また最近、保健調剤で薬剤師は患者に副作用や相互作用などの薬の情報を提 供する義務が生じた為、処方を出す医師以上に薬に詳しくなければならなくなっ たということもあり、当然漢方処方が出れば、不得意だからとは言えない状況で もある。

 さて中医学の勉強は、最終的には自己の勉強と実銭によるところが大である が、始めはシリーズで系統だった考えや理論を学び続ける必要を感じる。
「陰陽五行学説」や「臓象学説」などの中医学の基本的な原理は繰り返しやっ て、各自実践でその有用性を体験することによって本当に身に付く。それは時間 がかかることである。
 ある程度身に付いたなら、旅立つ人、他の会に移る人と様々である。
最後に特別に漢方なり、中医学を学ぶ教育機関が必要か? それは薬剤師の免 許、医師の免許の為の学問とは違うものか? 漢方を行うには資格制度必要か? という問いには、容易に答えが出せない、この紙面の制限ではちょっとはばかれ る。
(というのは教育制度から、一般人への啓蒙から、もう抜本的な改革が必要で ある。安易な方法では解決されない)

A)スタンダードな中医学の教科書は?
 コピーを用意するのも面倒だからと、実は自分の研究会で教科書を使うよう にと《中医学講義》を書いたのである。(そろそろ縮本版を出したいと思うが? )
私が今まで主に自分の勉強に用いた教科書は《中医学入門》《漢方基礎理論》 、中国の本では《中医学基礎概論》が気に入っているが、他の有名な中医学書も 幾つかある。
 個人的には以上どの本を教科書に用いても良いという気がする。後は講師の 技量である。
他に必要なのは中薬学と中国の医学史書であり、後者は良い日本語の書がない (書くか?)、というのはやはり金元の四大家の名前くらいは言えないとだめだ ろう、「補中益気湯」作った人の名前程度は、これはイギリスの首相の名前が言 えないのと同じレベルである。

3.今後について
 これから漢方を学ぼうとするなら、やはり中医学を薦めたい。
というのは、個人的には中医学をやっているという認識はない。
古典を読んでも、今の中医の教科書でも「経に云う〜」で始まる、《内経》が 原点であり私の参照点である。
《内経》を学ぶのも大変かも知れないが、《内経》を知らないのは漢方を行う 上では基礎がない家に等しい。当然私の研究会では毎回《内経》の白文を輪読し ている。(ほんとかよ?)
 日本では《傷寒雑病論》を信奉する派を古方といい、李朱医学は後世派と呼 び、私は中医学の基礎理論を用いるから、やはり中医学という流れになる。
しかし、実際には古方の人でも補中益気湯は使うだろうし、後世派の人でも小 建中湯は使うだろうし、黄連解毒湯なんかも両者とも使うだろうから、考え方の 相違のみかも知れない。厳密な区別はどこにあるのだろうか。

 中医学には《傷寒論》《金匱要略》も含まれるしその後の《肘后方》、《諸 病源候論》《千金方》《外台秘要方》の三部作、《和剤局方》《三因方》《小児 薬証直訣》《婦人良方》、金元の四大家《宣明論方》《玄機原病式》《気宜保命 集》《脾胃論》《蘭室秘蔵》《内外傷弁惑論》《格致余論》《丹渓心法》、明の 李時珍の《本草綱目》、《景岳全書》、そして清代の《医方集解》、温病の明確 な方法論《温病条弁》《通俗傷寒論》、「〜逐A湯」など駆A血剤を沢山作った ユニークな王清任の《医林改錯》までの中国のすべての知性、様々な考え方が網 羅される。
これが重要なことなのだ、私は張仲景の他にも偉大な医家を何人も知っている のだ。
また陰陽五行学説の陝・や陶弘景や王冰や林億らの業績も忘れられない。
 それらのことから鑑みれば、やはり漢方の本流とは中医学にしかないと感じ るし、他の人たちから見れば中医学という流派なのかも知れないが、これが歴史 的に途切れなく発達を続けている体系であることを知れば、これが源流に相違な いと解ってくれる筈である。