山梨西郡の道祖神とサイノカミ信仰 by とらやまねこ 2024/07/20

1.鳥居の構造からの考察

かつて、山梨に移住した頃から気にはなっていた。
鳥居とおぼしき二本の石柱があり、石組みの基壇上に花崗岩の自然石が座している。
神社か?祠か?調べると、これは丸石道祖神とよばれ、特に甲州には多いそうだ。
富家伝承の出雲族の話に登場する神社の鳥居と同じ構造だと知ったのが数年前のこと。
また山梨県には‘久那土’という地名があり、現在はJR東海身延線の久那土駅から東方一帯にあたりで、クナト神と出雲族に関係している事は疑いようがない。
韮崎市龍岡町坂の上、サイノカミ、右は蚕神。秋葉さんは少し離れたところに祀られている。また秋葉さんは灯籠を伴うことが多い。

二本の柱は注連石(シメイシ)、注連柱、注連掛け鳥居、或いは出雲様式鳥居とも呼ばれるようだ。見た目は、現代人が目にする、伊勢神宮の神明鳥居や鹿島鳥居とはかなり異なる。
よってここに祀られている神は、何々大明神とか、秦氏の稲荷神社、記紀のアマテラス体系の神々とは異なる起源を持つことは明らかだ。要は出雲族のサイノカミ信仰に源があると考える。さすれば上古よりは甲州には出雲族が住み着いていたとすると、「甲斐国湖水伝説・蹴裂伝説 古代湖再現」で述べた、大神神社や保佐彦王子の蹴裂の話や、久那土の地名もスムースな流れとして理解できる。

またお祭りとしては、後世のこととはなるが甲府道祖神祭礼といい、江戸時代から甲府城下町で行われた小正月の道祖神祭礼があり、現在も旧白根町の近所では注連縄を集落に張り巡らして、祭礼を行っている。

南アルプス市桃園(52号線沿い)、左からサルタ彦?、サイノカミ、秋葉神社

南アルプス市野新町交差点(52号線)の道祖神、小正月の祭りの時には中心的な道祖神。左の石は秋葉神社と刻まれている。

2.鳥居の起源の考察

何故鳥居の構造が異なるのか?
鳥居の起源に関しては、若い頃に調べたときには、朝鮮半島には、チントベキという鳥が止まった高い構造物があることは知ったが、

Wikiの[鳥居]出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する

「文化人類学的な観点

現在の雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(英語:Akha、中国ではハニ族)の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや[17][18][19]、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者[10]から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており[12]、また他にも多くの遺蹟でも同様である[20]。」

ハニ族と日本人との文化人類学的な共通点は多い、或いはミャオ族も同様で、弥生人のルーツが長江流域にあり、温帯ジャポニカ米の水田稲作とともに持ち込まれたと推測できる。現代人のY遺伝子ハプロタイプでは、O1b2系の人が弥生人の末裔とされ、現在約23割程度の日本人がこれにあたる。

中国では、華南の人の3割がO1b1で、長江文明の衰退で南下した集団ともいわれているが、ミャオ族の伝説には、祖先はもともと長江中流域で生活していたが、侵入者により土地を奪われちりぢりに山間部に逃げていったとあり、これも移動の大きな流れで、現在の中国少数民族となったようだ。

長江中下流域は、水田稲作される温帯ジャポニカ稲の発祥地とも推測されており、その後河口域にて長江文明を作った、或いは担ったと考える。
そして、衰退後に西に移動し日本列島に到達したのが、同じO1b系のO1b2の弥生人ということになる。

或いは、Korean Gene and uniqueness「日本人の起源としての中国の少数民族.
http://www.hpcreating.com/Japanese.html
では、「The ChinaMAP analytics of deep whole genome sequences in 10,588 individuals」のSNPsマッピングの、現在のミャオ族が遺伝的に日本人に近いという分析結果から、過去にミャオ族のとある祖先集団が渡来した可能性を論じている。

 私見としては、弥生人を現在の中国少数民族の祖先の特定の一集団なのみではなく、複数集団の断続的な複数回の渡来であったと考えるのが自然な気がする。
渡来時期の問題(呉、越の滅んだ時期のみでは合わないこと)、渡来のルート(大きな問題ではないが、単一ではないだろう)、渡航方法なども含めて、今後検証されるのだろう。

3.ハニ族と弥生人の共通点

次に、ハニ族との共通点を確認すれば、更に理解が深まると思う。
Wikiの[ハニ族]出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する

「日本渡来説
弥生時代の遺跡等から見つかった人骨と
DNA・骨格等が一致又は酷似しており、大豆を使った納豆や味噌さらに歌垣の文化、自然崇拝のアニミズム等日本との共通点が多い。
ハニ族は4世紀以降に戦火から逃れて南下したとされるが、遥か東の日本列島まで到達していた痕跡が見つかっている。
鳥居
ハニ族はベトナムやラオス・ミャンマー・タイにも移住しており、現地ではアカ族と呼ばれている。特にラオスに住むアカ族の村の入り口には木で作った門があり形が日本の最古の鳥居に似ている。日本のように磨いた白木を組み合わせてはいないが、鳥居の形状と魔除けの役割を負っている点で一致しており、門の上に鳥の彫刻が据えられている場合もある。日本の弥生時代の一部遺構から似た形の鳥を模した彫刻が見つかった例もある。
また鳥居の風習は四川省涼山に棲むイ族(彝族)とも共通しておりチベットから流れる長江(揚子江)付近に存在した長江文明担い手の子孫とされるイ族と元々の生活域が近い事から近縁であると考えられる。」

かなり遠回りをしたが、華南から渡来してきた弥生人に神社の鳥居の起源があることは説得力がある。その際、呉や越の文化を吸収してきたのだろう、勿論弥生人の別の集団には、生粋の越人や呉人がいたこともあるかもしれない。
注連掛け鳥居に関しては、鳥居という言葉を使うのは不適切な気がする。
機能的には、神の領域と俗界との境界を示すもの、神社の入り口を示すもので同じではあるが、やはり注連柱なのだろう。そして鳥居とは起源が異なることはここまで長々論じてきたとおりである。

4.出雲族のY遺伝子ハプロタイプ

その前に、出雲族が弥生人なのか縄文人なのかは判断の仕方が問われると思っている。
出雲人のY遺伝子ハプロタイプはD1a2であり、継体天皇、オホド王は出雲族出身だからD1a2で、それは今生天皇まで繋がっているようだ。だから清和源氏の子孫の義経も同じらしい。
そして現代日本人の4割くらいがD1a2なので、縄文人はそのまま生き残っていたなんて揶揄されるが、沖縄とアイヌの人たちはもっと高頻度となるのは、日本の中心部から離れている、残ったか、追われたかなので、これは自然だ。
しかし沖縄とアイヌの人たちは文化的に出雲族とのつながりは見いだせない別集団である。単純に
D1a2は縄文人とはいえなくなる。
出雲族は、文化人類学的には弥生人かそれ以降の渡来人と同じレベルだからだ。
この件については、別に考察することを予定している。

5.サイノカミ信仰を持つ出雲族が作った神社

三輪山の大神神社と檜原神社には、有名な三ツ鳥居があり、また注連柱もみられる。狭井神社にも注連柱はある。ただ一般的な鳥居もある。
三ツ鳥居には、サイノカミ三神、クナト神、サイヒメ、サルタ彦神が祀られている。
これまでの考察によれば、この三ツ鳥居はやはり鳥居なので、後世のものなのだろうか。
三輪山がご神体というのは、出雲族以前の集団である縄文人や旧石器人が行ってきた祭祀の名残ではないかと思う。かれらは神社の拝殿ではなく、磐座で祭祀を行っていたであろう。
だからサイノカミ信仰に関しては、現在の道祖神の原型が残されていると考えられる。
さて道祖神の起源については、出雲族の神に求める報告・研究はないようで、理由は

一に、古すぎてもともとの祭神が不明

二に、記紀によりアマテラス体系が作り上げられ、その中で出雲族の神が作られ、実在の王であるコトシロヌシ、オオクニヌシが神話の中に閉じ込められ、地祇系の神にされたため、もともとの信仰であるサイノカミ信仰は廃れた。ただ太陽神信仰は都合良くアマテラスという架空の神に形を変えた。

三に、現代人が、神社といわれて想起する神社(鳥居、拝殿、神殿)とは趣が異なる。


韮崎市相垈(141号線沿い)道上道祖神、秋葉さんも祀られている。その他丸石やリンガ様の石も後ろに並べられている。典型的な丸石道祖神。

6.道祖神について

道祖神についてはWikiの[道祖神]出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用するが、[道祖]とは中国の概念であり、導入されたものだ。

「全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、」
「神名としての初見史料は10世紀半ばに編纂された『和名類聚抄』で、11世紀に編纂された『本朝法華験記』には「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されており、『今昔物語集』にも同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている。平安時代の『和名抄』にも「道祖」という言葉が出てきており、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている[1]。」
 とあるからやはり元はサイノカミ信仰であることは間違いがない。

次に、
「道祖神が数多く作られるようになったのは18世紀から19世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である[5]

ともあり、ここ勅使川扇状地では、上記のことが当てはまる可能性は大きい、とすれば出雲族の足跡として、道祖神があるとは言いづらい点もある。

「道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である[5]。像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む[5]

単体道祖神
単体二神道祖神

球状道祖神
文字型道祖神
男根型道祖神[1]
自然石道祖神
題目道祖神
双体道祖神
餅つき道祖神
丸石道祖神
多重塔道祖神 」

次に形体は様々であり、原型が何だったのかも推測しがたい。
双体道祖神とは男女が並んだ像で、男女の交合を意味するようにとれ、餅つき道祖神は臼と杵で、ヒンドゥー教のリンガ(男性器)とヨニ(女性器)を、男根形は他の神社でもご神体となるがリンガに相当して、生殖器崇拝と考えられる。
よって、これらのもとの概念は出雲族のサイノカミ信仰に含まれていたと察せられ、ヒンドゥー教の原型はインダス文明に求められるので、やはり彼らの祖先はドラヴィダ人なのかも知れない。
「道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている[5] [12]
長野県安曇野市には約400体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約370体の石像道祖神があるが」

次に、南アルプス市の教育委員会の調査【連載 今、南アルプスが面白い】 2021215 ()
https://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2021/02/post-74b3.html
では、ここ南アルプス市内にも195基あるという、地図に示してあるのだが、私見としてはもっとあるように思う。
またここには、秋葉さん“と呼ばれる小さい祠のものもあり、或いは秋葉神社と彫られたご神体の石もある。これは後世に併せたのではないかと考える。
或いは「蚕神」と彫られた石も並べられることがある。
当地における、ご神体の材となる石についてであるが、釜無川の上流の甲斐駒ヶ岳や鳳凰三山などの山は花崗岩で成り立ち、下流の河原には大小の花崗岩の石ころがたくさんあり、形状は角が削られ丸い形状のものも多くある。調達は容易である。
注連柱とご神体が離れている例、後世移動させたのか?南アルプス市在家塚 ご神体は左から、サイノカミ、蚕影大神、秋葉さん、その他

7.サイノカミを祭る神社

先ずクナト神は、記紀に埋もれてはいるが、オオヤマツミ命(大山祇神)と名を変えて、三嶋大社、大山祗神社、大山阿夫利神社に祭られている。
クナトは、岐、或いは、船戸、車戸と名を変え、現在は数が少ないが、船戸神社や車戸神社に祭られている。ただしそれら神社の鳥居は、注連柱ではない。
一例として、茨城県神栖市の息栖神社(いきすじんじゃ)の祭神は久那戸神であり、当社は香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称される。


香取神宮・鹿島神宮の祭神は武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)と 経津主大神(フツヌシ)で、ばりばりの記紀の神である。またこの二社は蝦夷平定(葦原中国平定)のために建てられた輸送基地の意味合いが強い、ヤマトタケルの東征のルートにあるというわけで、両者とも当時の朝廷側、藤原氏と縁が深いことは言うまでもない。
ただ、鹿島神社の当初の祭神は沼川耳の子、神八井耳であり、神八井耳の子孫の武借馬タケカシマが創建したということで、元は出雲族の神社だったそうだ。(或いは、常陸の大氏が祀った鹿島の大神で、三輪山の神に繋がるという説もあった、後に中臣に祭祀権を奪われた)
息栖神社の祭神はクナト神であり、社伝では、第15代応神天皇の代に創建とあるから記紀以前で史実とすれば、かなり古く、第二次物部東征からそうは経ていない。出雲族の神であるから、豊彦軍を追い払うために野見宿弥軍が関東平野に派兵され、南関東に移り住んだ出雲族が建てたか、或いはそれ以前に大彦一族が建てかと推測しても良い気がする。

もうひとつ、京都市上京区寺町通今出川上る西入 幸神町の幸神社(さいのかみのやしろ)で、祭神は猿田彦になっているが、町名からもサイノカミ信仰の神社であることが分かる。

また、「幸神社(さいのかみのやしろ石神さん)https://kyoto-k.sakura.ne.jp/jinjya1083.htmlによれば.「この辺りに居をかまえていた出雲氏の氏神であったとも言われています。」とある。これは正に、山城に移り住んだ加茂家の建津乃身の末裔が建てたのであろう。
注目されるのは、クナト神、幸ノ神、サルタ彦命が猿田彦のみに換えられていることであり、他の道祖神も同様である傾向を示すように感じる。
この点、福井鯖江舟津神社の言い伝えにあるように、大彦はサルタ神のみ祀れば良いと判断したのかも知れない。後世の道祖神はサイノカミ信仰とはまた別の方向性を示すようになったのだろうか

この猿田彦の件に関しては

「祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、かのえさるを転じて神道の猿田彦神とも習合した。Wikiの[岐の神]出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ともあり、無視できない。或いは後からのこじつけなのかは不明だ。

また北九州市八幡西区幸神一丁目の「さいのかみ様」幸神神社には、道祖神と猿田彦が別に同時に奉られているそうだ。「さいのかみ様 -北九州市.htmhttps://www.city.kitakyushu.lg.jp/yahatanishi/file_0048.html
この神社の住所も、幸神サイノカミである。
サイノカミ三神は、もともとはやはり別々に扱われていたのかも知れない。
関係性を理解しやすいように図を作ってみた。
道祖神は、集落の入り口や道沿いに配され、邪気や悪しきものが入らないようにする働きは、塞ノ神とし。良きもの喜ばしきものが入ってくるように働くのは、幸ノ神と考えると分かりやすい。

道祖神の語源である中国の「道祖」が、いつ(漢代ともいわれている)どんなことで習合したかについては調べが付いていないが、サイノカミ信仰が変遷していく過程では大きな鍵となる。



8.大彦勢力と道祖神

道祖神が多く残っているのは、甲信越と関東地方に、東北や東海も加えて良いと思うが、大彦や子の武沼河別の勢力が及んだ地域という見方もできそうだ。
クナト神信仰ではなく、サイノカミ信仰やアラハバキ信仰を拡げたかった大彦の意向が背景にありそうだ。
また先述したが、双体道祖神は、シヴァ・リンガ崇拝に源があるように考える。
サルタヒコとアメノウズメを夫婦にするのは後世のかたちではないだろうか、ちなみにアメノウズメの原型は、アメノ宇佐女であり、椿神社にかくまわれ、後に暗殺された豊姫であるという。
そうすると、クナト王と幸姫ではないことになる。どちらが元モデルなのかは分からないが、前者の場合。記紀の神話に根拠を求めていることは確かである。
左写真、長坂大井が森の双体道祖神。峡北に入ると双体道祖神をよく見るようになる。右写真、二本の鉄パイプによる注連柱、多くのリンガのようなご神体と思われる石が並べられている。灯籠があることから元は秋葉さんか。

9.小正月の祭事とインドのポンガルの共通点と道祖神、注連柱

 甲州には、小正月に行われる甲府道祖神祭があることは既に述べたが、南インドにはこれによく似た、Pongal(ポンガル)という115日に行われる、ヒンドゥー教以前の古い祭があるそうだ。南インドはドラビィダ人が現在住んでいる土地である。
共通点は、注連縄(しめなわ)を村や家の入口に張る。家の門にサトウキビを立てる。日本では門松に相当するか。
長野では小正月の祭事に「御柱」という飾りを付けた1本の高い柱に飾りを付ける。山梨では「御柱」とは言わないが、同様のものである。ただし「御柱」といっても諏訪大社の「御柱祭」の「御柱オンバシラ」とは関係はない。
(これをポンガルともいう)をつくり神に捧げて、食べる。これは日本では七草粥に相当するか。
 小正月に食べる小豆粥に関しては、「六朝時代の中国南部では115日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。これが日本に伝わって115日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている。」ともある。『荊楚歳時記』は南朝梁の宗懍(そうりん)によって、中国南方の荊楚地方(長江中流域)の年中行事を記した書であるので、南北朝以前より中国南部の稲作民族が行っていた祭事であると考えてよいだろう。これがインドへも伝えられた可能性もある。
或いは『荊楚歳時記』に根拠を求めずとも、弥生人集団の渡来により持ち込まれた可能性は大きい。
Wikiの[小豆粥][荊楚歳時記]出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
その他には、どんど焼き、藁で作った小屋や物を焼くなどがあるそうだ。野沢温泉の道祖神祭りでは火祭りとなる。
注連柱の起源とドラヴィダと出雲族との関連については、示唆的である。

他には、やはり『荊楚歳時記』によれば、「正月十五日、豆糜(豆が入った粥?)を作り、油膏を其の上に加え、以て門戸を祠る。其の夕、紫姑を迎え、以て将来の蚕桑を卜い、并せて衆事を占う」とある。Wikiの[小正月]出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
米粉で作った繭玉の飾りを作って予祝を行うことも、現在まで続けられている。
道祖神に並んで、蚕神が祀られていることに繋がっているのだろう。
小正月の祭事とは、農耕民族が五穀豊穣や繭玉の豊作を願って行うことに由来していることが分かる。
また道祖神には後世、火伏せの神である秋葉さん(秋葉山)が並べて祭られている事については既に述べたが、現在みられる道祖神の成り立ちを下記に示す。



10.小正月とサイノカミ祭事

道祖神とは離れて、小正月にサイノカミのみの祭事も行われている例を、文化庁の文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/170885 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/223539からの引用する。
祭りの内容を要約すると、サイノカミの人形を作り、村中を回ってから燃やす火祭りである。サイノカミの人形に、一年間の穢れや厄を背負わせてから燃して祓うという主旨にとれる。出雲族が広めたサイノカミ信仰は、農耕民族的な色合いを深くして、現在まで継続している。
南アルプス市有野御勅使公民館 小正月の飾り付け?1/16撮影
・会津三島のサイノカミ
「三島のサイノカミは、五穀豊穣や無病息災、厄落としなどを祈願して行われる小正月の火祭りである。町内の宮下、桑原、大登、川井、桧原、滝谷、名入、滝原の各地区と、西方地区の13か所で行われる。
  雪踏みをして作った会場に、山から切り出した神木を運び、これに各家から集めた正月飾りなどをつけて立て、夜になると燃やすもので、この作り物もサイノカミと呼ぶ。雪踏みや正月飾りを集めるのは子どもたちの仕事で、神木の提供やサイノカミの点火などは厄年の男性が行うことが多い。
 厄落としのた め、厄年の男性によるミカン撒きや村人が厄年の男性を担いで燃え盛るサイノカミの周囲をまわる行事も行われる。また、サイノカミの燃え方で豊凶を占った り、この火にあたったり、餅などを焼いて食べると病気をしないなどともいう。」

・邑町のサイノカミ 富山県下新川郡入善町 
「邑町のサイノカミは、厄払いや無病息災、五穀豊穣などを祈願する小正月の火祭りである。早朝より、子どもたちが、サイ ノカミの唄を歌いながら家々を訪問して正月飾りを集め、菓子などをもらう。このとき最年長の子どもがデクという男女一対の木製の人形をもつ。子どもたちが 各家を回る間、地区の境では竹と藁で円錐形の作り物が作られる。子どもたちが回り終えると、デクを正月飾りとともに作り物の中に納めて火をつける。デクが 完全に灰になるまで燃やして行事は終了する。」

11.現在に見る注連柱と鳥居の区別

近所にある道祖神を調べた中に興味深い形式を見つけた。
同一敷地に秋葉さんとサイノカミが別々に祀られている事例で、鳥居と注連柱が、後世も厳密に区別されていることである。
南アルプス市百々にある例と、北杜市長坂町大井ヶ森の例であり、共通することは、用地が広いという点だ。
また秋葉さんの祠は、もとは一戸にひとつあるのではと思え、旧家では敷地内に祀られている。鳥居を伴った例も多い。


左写真、南アルプス市百々の猿田彦命右手前、と秋葉さん松の木下。右写真、秋葉さんには鳥居がある、右奥にサルタヒコ命。後世分離させた模様。

左写真、猿田彦命。右写真、秋葉さん、新たな壇に祀られているが、灯籠は忘れたのか。
長坂、大井が森。同一敷地内、左写真、鳥居と秋葉さん、左端の石碑には秋葉神社と刻まれている。右写真、注連柱、サイノカミ神、ご神体は黒石のリンガ。

旧竜王町本竜王の道祖神でもサイノカミと秋葉さんが区別して祀られている。由緒については文政年間に八又彦、八又姫を農業の神として祀ったらしい旨の記載あり。祭神は八衢比売神・八衢比古神とのこと。しかし、ここには注連柱も鳥居もない。
近所龍岡町石宮、神社に並んで祀られている例。左写真、石宮神社本殿の隣にある道祖神、右奥に道祖神が見える。右写真、注連柱がある、右には秋葉さんの灯籠が並んでいる。祠は左奥に数個まとめられている。サイノカミは3つあり、うち丸石が2つある。