甲斐国湖水伝説・蹴裂伝説 古代湖再現 by とらやまねこ


緒言
 山梨に引っ越して早30年、以前仕事でたまに行く郵便局の隣に神社があった。旧甲西町の神部神社(かんべじんじゃ)だった。
その由緒に、当時社前まで湖があり、船を引いて、奉遷したという。
その様子が今日まで、町無形民俗文化財の神部神社の曳舟神事として続いているらしい。実は当初「お船祭り」を調べていて、同類のものかと思っていたが、全然異なるものであった。
甲府盆地に古代湖が存在したか?私は存在したと思う。根拠は簡単で、盆地という地形がそれを成す要因で、盆に水が溜まるのと同じである。個別的な地形によりどのように流れ出るかは決まる。
例としては、お隣の諏訪では湖は残っているが、松本盆地の古代安曇湖、長野盆地と飯山盆地の水内海ミノチノウミ(上水内郡と下水内郡)、奈良盆地でも古代に湖沼はあったと聞く、或いは豊岡盆地のアメノヒポコ伝説がある。そして甲斐の国にも。
 以下、記紀の欠史八代から読む年号は西暦にするのには甚だ困難ないので、《富家の伝承》から推定している。
常時更新なので、最新版は一番後ろとなります。

方法
 旧甲西町の神部神社の由緒を根拠とした。要点は垂仁朝に、大和三輪山の大神神社より勧請。そのとき社殿のそばまで湖水があった。
神部神社の標高は、現在276mあり、そこから下がったところに湖面があったと仮定した。
弥生時代の遺跡からは近くにL向河原遺跡とM油田遺跡があり、ここの標高は260mほどなので、こちらを基準として湖面標高260mにて色分けした。
ただ後述するが、湖面の標高はその時々により変動はあったはずである。
試作一例としてご理解いただきたい。水色の水面下、即ち水深は10mずつの表示となっている。  

時期
 垂仁朝であるから、イクメ大王が即位して次のオシロワケ(景行)大王までの時期だが、下限については、物部第二次東征開始の前、魏に遣使し「親魏倭王」の称号を受ける238年の頃からとする。AD240〜300年頃とする

湖水は図の如く、北東から南西に長く、長さ20kmほど、幅は6kmほど、面積は93.2km2と試算され、諏訪湖の7倍、琵琶湖の1/7である。右下の河口湖の大きさと比べるようにした。
予想外だったのは、山梨県庁と甲府駅は高くなった所にあり陸地だが、その近くまでは湖面となる。石和からは陸地となる。
西郡ニシゴオリは釜無川浅原橋付近まで湖水、南アルプス市小笠原は陸地である。
20号線石和橋下あたりから鰍沢までの笛吹川の勾配は緩いので、湖水は笛吹川沿いにに長く形成する(おおよその勾配は距離20kmで標高差20mしかない)。
1000m進んでも1mしか水深はないから、かなり遠浅だったと思われる。だから湖水周辺は葦の生える沼地のようだったかもしれないし、一度溢水すれば容易に洪水になってしまう。
甲府に「青沼」という地名があり、多くの湖沼が点在していたことによる地名だそうだ。(図中 甲府駅南東、水面下)
地図上のスポットは@〜Cは同じ頃に勧請された神社とそれらより古い?D蹴裂伝説のある神社

@神部神社 南アルプス市下宮地
A美和神社 笛吹市御坂
B杵衝神社 笛吹市御坂
C神部神社 山梨市上神内川
D佐久神社 甲府市下向山 旧東八代郡中道町

勧請した時期に相当する弥生時代から古墳時代の遺跡

E上の平遺跡 甲府市下向山
F銚子塚古墳 甲府市下曽根町
H身洗川遺跡 笛吹市八代町
I金の尾遺跡 甲斐市大下条
J宮ノ前遺跡 韮崎藤井町
K富士見一丁目遺跡 甲府市富士見
L向河原遺跡 南アルプス市 江原
M油田遺跡 南アルプス市 田島
N平野遺跡 富士川町 最勝寺
O住吉遺跡 南アルプス市古市場 ※水面下254m
P村前東A遺跡 南アルプス市十日市場、十五所

G波場公園; 昔には船つき場だったので「波場はば」という伝承があり、現在は公園で地名は市川三郷町大塚。標高は310m。

 詳細
 水田遺構のあるH身洗川遺跡は標高273m、F銚子塚古墳はぎりぎり水面下となり標高は259m。禹の瀬付近河原の標高は234m。
弥生時代に入ると、南アルプス市内では御勅使川扇状地の末端で水稲の栽培が始まる。 L向河原遺跡M油田遺跡O住吉遺跡。
J”宮ノ前遺跡〜発掘調査報告書 韮崎市教育委員会1992”によると、水田址土の14C年代測定値は、試料一つは2670、一つは2190、±80年と報告されている。これを暦年補正(Intcal20)すると、BC800年頃とBC350〜220年となり、一つ目の試料の年代では早すぎる感があるが、2つめの試料は他と照らし合わせると蓋然性が高い。弥生時代中期前半に相当する。 ちなみに現在でも遺跡は広く水田に囲まれているような立地である。
なお同報告書では土器(板付Ua、b)やプラントオパールの調査結果より、弥生時代前期後葉と結論づけている。
ただH身洗川遺跡の水田址、1区谷東壁セクション31層では2540、±80年と報告され、暦年換算してBC750年頃となり、宮ノ前遺跡一つ目の試料と同じくらいの数値となることも留意したい。
”炭素14年代の較正にもとづく弥生時代の実年代”により500年開始年代が遡り、九州北部では板付T式土器はAMS法でBC900〜750年(国立歴史民俗博物館2003年報告) となったそうで、こちらも更に遡るかもしれない?

考察
 湖水再現の問題は、湖がどの程度の大きさで現実的な折り合いがつくか?ということである。
あまり小さくては陸路を使い迂回して避ければよいので、わざわざ舟で運ぶ意味がなくなる。
洪水を防ぐ目的がなければ蹴裂する必要もなくなる。より低い250mライン(濃い水色)以下では、そうなるだろう。
禹の瀬、河原の標高は現在234mなので、そこでの流量にはよるが、湖面標高がおおよそ240mでは湖水は生じず、存在することはないだろう。
しかし当時の河原の標高は、蹴裂前とすれば今よりは高かった可能性もあるが、川底を浚渫するのは困難だったろうから、谷を削る開削だったと考える、無視しても良いだろう。。
或いはより高い270m、神部神社の由緒が史実とするならば、可能性としてはあると思う。 ということは湖面標高はおおよそ240〜270mの範囲だったと推測できる。

 このように実際には湖面の高さは変動があったと推測される。現在と同じように降水量が支配的だろう。
長いスパンでは、季節変動要因以外には地質学的スケールで温暖化と寒冷化により変動しただろうと推測される。これは遺跡の所在に影響する。
さらに当時は、現在より上部堆積層は薄かったと推測されるが、たかが2000年なので数メールだろうから、無視した。
 一番気になるのは、河川の水量であり、古老の話を聞くと戦前には釜無川には多くの水が流れていたそうだ、船山橋付近にはいくつもの大きく深い池があり、子供の頃はそこで泳いでいたそうだ。確かに、信玄公の世には暴れ川で有名な御勅使川ミダイガワも今では、人が飛び越えられる程度の川幅しかない。流路も当時とは大きく変わっている。
湖水の大きさにどう関係するのかは下記に示すが、水量があれば流れは速くなるだろう。

さて水量から考察すれば、釜無川と笛吹川、日川と金川などの全河川の水が盆地に流入し、狭窄している富士川の禹の瀬を通って流れ出す。
盆地に入力される流量(単位時間あたりの容積)と禹の瀬で出力される流量のバランスでこの湖水の水位は決定すると考えられる。
入力は降雨によるから天気次第、即ち降水量、出力は禹の瀬の狭窄部分で律速段階となるが、そこの基本的な構造は渓谷なので、入力される水量が増えればそこでの水位は高くなるからより排水能力(出力流量)は増すことも推測される。入力流量>出力流量なら湖水量増えて、氾濫などにつながる。入力流量=出力流量なら平衡状態だから、湖水の大きさの標準モデル。
単純な原理モデルとしては、V字型に切り込みを入れたバケツであり、バケツに水を入れるのが河川からの入力、V字の切れ込みから流れ出すのが富士川への出力。バケツの水位変動が湖水の水位変動。V字の切れ込みが禹の瀬の垂直断面。
 ※禹ウについて[古代中国の伝説的帝王で、尭舜の代に黄河で大洪水があり、鯀コンが治水をするが成せず、子の禹が13年かけて成功した。禅譲を受け夏王朝をおこしたとされる。治水土木の神様とされている]

ヤマトからの経路について
 湖水を舟で渡ってきたのだから、諏訪-韮崎方面からではない。以下は推測でしかないが、E上の平遺跡、F銚子塚古墳があるところは曽根丘陵の「中道」と呼ばれる地域で、古代からの街道である中道往還が通り、古墳など遺跡が多く集まっているところである。古墳はヤマトと東海の影響を受けているらしい。
陸路は東海を経由しこの街道を使い、下曽根(県立考古学博物館)あたりで、舟に乗り換えたのであろうか?湖水を横切り、滝沢川に入り、社殿の近くに上陸したのだろうか。
富士川を遡ってきたとは考えにくい、富士川舟運が始まったのは1600年頃からで、それには幾箇所の難所をクリアしなくてはならなかった。(ただ乗り継いでの経路もあったか?)
この頃、甲斐国国衙や国府で話題に上る、春日居や山梨市や一宮・御坂(ひとつ亀甲塚はあるが墳形不明)には、大型の前方後円墳はないようだ、中道がその頃の文化的中心地であったのだと思う。逆を謂えば中道往還があったから、その地の利から栄えたのだろう。そしてここが中道往還の当時の起点だったのだろうか、目の前が湖水なら尚更である。


疑問1.
この時期には、すでに一回以上蹴裂ケサクされていたか?佐久神社の由緒では綏靖(海王朝二代目沼川耳大王)朝に向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)によりなされているというが。多分されていないと思う。されていれば弥生時代の遺跡はかなり陸地にあるはずだし、社殿からも湖水はかなり離れてしまうだろう、或いは湖水自体が既に小さいか無いであろう。

第2回 南アルプス市 神部神社 勧請の考察 2023/08/27
 向山土本毘古王についてはこの後にするとして、神部神社について掘り下げようと思う。

○大物神社創建時期と祭神
時代は、ヤマト三輪山の大神神社からの勧請なので少なくとも大神神社創建以降となる。
その年を崇神7年にする説は、『記』の疫病が流行って、太田田根子が祀った云々話による。おおざっぱにAD200年頃だが、由緒に関しては信憑性は低い。
富東出雲王家向家と西出雲王家神門臣家の人々がヤマトに移住してから建てた神社は、鴨都波神社、一言主神社、高鴨神社、葛木御歳神社である。祭神に大物主はない。
《富家の伝承》によれば、古くはおおざっぱにBC200年頃からは、タタラ五十鈴姫は三輪山に太陽神を祭り、祭事を行っており、後に富家は鳥見山では「登美の霊畤」をしていた。
三輪山がご神体で、三つの磐座を持つことから察すれば縄文時代から信仰と祭事の場と対象であったのであろう。
祭神に関しては現在は1.大物主大神 2.大己貴神 3.少彦名神 とあり、大物主を主祭神とし祖先神ではないところが特徴的であると思う。
即ち、大物主=オオナムチ(大己貴神、大穴牟遲命、大名持ち)ではなさそうで、或いはヤマトモモソヒメと大物主の話、蛇神であるという箸墓古墳の伝説がある。或いは出雲族の竜蛇信仰が人型に形を変えたものか?と推測されるが、しっくりは来ない。謎が残る大物主である。
 ということは、比較的後にできた祭神となり創建が崇神7年というのはあながち嘘ではないかもしれない。西暦に換算すると推定でAD200年頃か。神部神社勧請の時期に無理はない。
神部神社の祭神は、現在の大神神社の構成とは異なり、大物主のみである。今朝確かめに行ってきたが、外からでは市教委の掲示以外に何もない。

○どんな人が勧請したのか?
次に、誰が勧請したのか?予測される人物。 垂仁朝だから景行朝の甲斐国造「塩海足尼」より前の代の人。また後述するが、塩海足尼が勧請したと伝わる神社は数多く存在するが、この神社は異なる。この点は「向山土本毘古王」が誰なのかとも関係するが、条件として列挙すれば

1.その時代のヤマトでの統治における祭祀の重要性を知っている人 → ヤマトの人、磯城王朝の人
2.ヤマトから勧請するための費用、社殿を造営する費用を考えれば財力的基盤がある → 豪族とか磯城王朝の人
3.大神神社の地形的成り立ちを理解している人、即ち三輪山祭事を知っている人 → 社殿正面を向くと櫛形山が正面になるので、三輪山を模してご神体は櫛形山とした?
櫛形山のなだらかな稜線は、ヤマトの三輪山を彷彿とさせたのではないか。
盆地なので山は多いが、望める山並みで富士山、八ヶ岳、甲斐駒、鳳凰、金峰は適当ではなかった、好みできなかった。
だから、鎮座地として選ばれた。
4.祭神からは、物部系、海部、尾張氏ではない人、ニギハヤヒやスサノウやホホデミやウマシマジやホアカリを祖とはしない人。 → 出雲族の人、磯城王朝の人
櫛形山 旧白根町より
○結論
 佐保彦王子が有力。そして頃は第二次物部東征ヤマト攻防戦(AD260頃)以前が安全であろうが、勧請の後に行われると推測される蹴裂の時期も関連するが、以降でも可能であったとすれば臣知津彦も候補となる。
 それはイクメ大王らは、第一次物部東征の大彦の時のように、執拗に佐保彦王子を追い回してはいない様子にとれるからだ、一方豊彦たちは下毛野、上毛野まで追い払われたが。この点については後で考察する。
彼は既に甲斐国には基盤を持っていたのだろうと考えられ、その根拠についてもこれから論じていく事にする。
《富家の伝承》に基づく資料を参考にしたが、『出雲と大和のあけぼの』は手元になく『出雲と蘇我王国』『出雲王国とヤマト政権』しかないから、補完的に諸兄のWEB上の記事を参考にさせてもらった。特定はしないが皆様のすばらしい仕事には御礼する次第だ。
『記紀』に関しては全部出鱈目とも言い難く、明らかなおとぎ話と創作劇を除くと正確とおぼしい記述もあると判断している。また”とらやまねこ”は人ではあるが、文系ではなく歴史はズブの素人で、この点も併せて容赦いただきたい。

この図は第二次物部東征の頃を中心として作った。磯城王朝から九州物部王朝への王朝交代があった時であり、破線で示している。
その境界線で、侵略者(朝敵)は新たな王朝となり、磯城王朝は滅亡する。渡来人征服王朝がヤマト王権を奪取した大転換期である。『記紀』では秘匿したいから、ヒコイマス大王とヒコミチヌシ大王をヤマト入りしていないイニエ王とイクメ王にすり替えて、王朝は続いているようにごまかしている。AD260〜270年頃と推測される。
【狭穂彦王の叛乱】は文学作品として評価されているようだが、創作と思われる。佐保彦王子は亡くなってはおらず、後は、臣知津彦、塩海足尼であり、年代的には無理はないと思う。

向山土本毘古王、穂見神社と佐久神社の由緒から考察 2023/08/30

佐久神社 甲府市下向山町 祭神 向山土本毘古王 建御名方命 菊理姫命
『祭神 向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)は彦火々出見命の後裔にて、日向の国高屋御殿にて御生誕せられ日向土本毘古王と号せられた。長じて第二代綏靖天皇の大臣となる。後に甲斐の国造に任命され、臣佐々眞武、長田足、丹後辨尼、其の他衆多の臣及千人の人夫を引き連れ、甲斐に御入国せられる。(BC五六一年)其の頃甲斐の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為、土地の豪族苗敷山に住める六度仙人(去来王子)姥口山に住める山祇右左辨羅などの協力を得て、南方山麓鍬沢禹の瀬の開削により、水を今の富士川に落し、多くの平土を得、住民安住の地を確保した。其の功績は偉大であり、甲斐の大開祖として崇められた。(工事着手BC五五四年、三ケ年後完成)。王は第四代懿徳天皇、四年八月十四日薨去せられ(BC四七二年)大宮山(古宮の地)に奉葬す。後に雄略天皇二年(AD四五八年)土仏築山に改葬せられる。今の天神山古墳之なり。崇神天皇八年、(BC九十年二月三日甲斐国大開祖向山土本毘古王を祀る為、国祭を以って宮殿が造営せられ、佐久大明神と号せられる。』 由来

 上記由来を読んだときには驚いたが、よく考えるとこれは「記紀」の解釈法が良いのだろうと思い付く。すなわち創作の部分と史実が混在しているから、偽りを切り捨て、裏付けのとれそうな箇所を整理するとした。

 『向山土本毘古王』は諸氏ご指摘の通り[向山沙本毘古王]、佐保彦王子のこと。
次『彦火々出見命の後裔にて、日向の国高屋御殿にて御生誕せられ日向土本毘古王と号せられた。』 この箇所は創作と思われる、物部系の人が書いたのだろう。或いは他からもっともらしい箇所を貼り付けたか?
『火々出見』は九州物部王朝の祖であり、後裔のイニエ王は都万王国(現 西都市)の王だったという。『日向の国高屋御殿』は日向高屋宮で現在は幾つか候補はあるようで一つに高屋神社・黒貫寺(宮崎県西都市岩爪)にあった宮殿と推定されているようである。
『長じて第二代綏靖天皇の大臣となる。後に甲斐の国造に任命され、』 ここも怪しい箇所で、先ず相当する王子が居ないし、甲斐の国造に命じられるのは時代が合わない。更に海王朝二代沼川耳ヌカワミミの大臣オオオミなら、時期は推測でBC150年前後だろうから、蹴裂の時期は合わない、父親の[10代日子坐ヒコイマス大王]の命が正しいか。
日子坐大王の代には、たくさんの王子が地方の国造に任命されている、ヤマト王権の中央集権への足がかりだったのだろう。今日でいうところの、このような大規模公共事業も試みたということだろう。
『臣佐々眞武、長田足、丹後辨尼、其の他衆多の臣及千人の人夫を引き連れ、甲斐に御入国せられる』 長田足と丹後弁尼は調べがつかず誰だか分からないが、『佐々眞』は[沙沙貴]ではないだろうか、大彦の息子、近江の沙沙貴山君か一族の者だろう。磯城王朝の臣だったのだろう。時期は一致し無理はない。
 とすれば、磯城王朝10代ヒコイマス日子坐の時代に佐保彦王子が、臣沙沙貴武と家来の者たちと、千人の人夫を連れて、ヤマトから甲斐に来た。
『土地の豪族苗敷山に住める六度仙人(去来王子)姥口山に住める山祇右左辨羅などの協力を得て』 ここは興味深い、古代の甲斐国の様子、 去来といえばホムタワケ応神の前名か?仙人?奥津甲斐辨羅?関係ないだろう。豪族らは不明である。
苗敷山はいまでもあって、姥口山は、右左口(中道)近辺なのだろうがどの山なのか現時点では不明。
地元の有力者の協力があったということは、磯城王権は中央と地方の良好な関係を築いていこうとしたのであろう。
『中略〜後に雄略天皇二年(AD四五八年)土仏築山に改葬せられる。今の天神山古墳之なり。』」 雄略の年号は古墳築造時期が異なるので違う。『天神山古墳』とあるから、この文書が書かれたのはこの古墳が後世、発見され命名された後のこととなるが、親切心からの加筆の可能性あり。
『中略〜佐久大明神と号せられる。』「明神(名神)」という称は神仏習合の影響であり、中世から近世には本来の祭神の名に代わり使われることが多くなった。「権現」も同様。
いままで宗教を好きで勉強してきた私にとっては、やめて欲しい慣習である。主祭神が分からずじまいの小さい明神様があちこちにある。
信仰や祈念の対象を知らないまま、参拝するのは、時に恐ろしいことでもある。
 またヤマト王権を象徴する古墳については、中道古墳群の大きな前方後円墳の成立年代順序を”『山梨県の前期古墳』小林健二 第2図山梨県の墳墓の変遷 ”より拝見すると、甲斐天神山古墳がAD290頃、大丸山古墳が310年頃、甲斐銚子塚古墳が330年頃となっている、或いは天神山古墳は3世紀後半〜4世紀前半頃築造ともいわれている。
さて20年では、築造間隔がやや狭すぎる感はあるが、誤差を±数10年とすれば、各の被葬者は佐保彦王子、臣知津彦、塩海足尼という仮説もあり得る。
お隣長野の千曲市には森将軍塚古墳など4世紀中頃に築造された埴科古墳群があり、やはり初代科野国造らの墳墓ではないかと考えられているそうで、共通点がある。

苗敷山 南アルプス市白根方向から、現在は甘利山の前衛である旭山山頂南に並ぶピーク。

穂見神社 韮崎市旭町上條南割 祭神 天之底立命 国之常之命 豊受姫命
『上古、甲斐の国が洪水により湖水と化した時、鳳凰山に住む六度仙人が、蹴裂明神と力を合わせ、南山を決削して、水を治め平野とし、里に住む山代王子がこの地を耕し、稲苗を敷き、民に米作りの道を教えた。これを以て国中の人々は、六度仙人を国立大明神、山代王子を山代王子権現として両神を山頂 に祀り苗敷山と呼んだ。聖武天皇の御代神亀元年(724)に延喜式内社、穂見神社を建立して〜。』由緒  例の大明神や権現が出てくるのでかなり後世に書かれている。
 この穂見神社は自宅から近くにある。また同名の神社はこの他に幾つか県内にはある。同一の氏族が創建したと思われるが、誰なのか不明で、私の推測では甲斐源氏の一族、逸見氏ではないかと思ったが、創建が神亀元年AD724年なら違う。物部系の穂積氏かとも考えたが、祭神が異なるかとも。六度仙人は苗敷山から鳳凰(薬師、観音、地蔵)へ移住。山代王子は不明。鳳凰や旭山の北側なので、山代なのかもしれない。
また稲作の歴史からみると、弥生時代中期には直播栽培から苗代栽培に変わる時期なのだが、遅すぎるか。
次に、祭神には種族的首尾一貫性がない。根本神の国常立命or国之常立命のお名前は正しくしよう。 この頃には向山土本毘古王→蹴裂明神になったのかも不明。
ただ由緒から読み取れるのは、神亀元年以前に蹴裂はなされていたということで、湖水再現からの下限AD240年から724年の間には蹴裂していたこととなる。

閑話休題的 物部神社 笛吹市石和町松本 祭神 櫛玉ニギ速日命、可美真手命、物部氏遠祖八神
『大和朝廷の使者として武内宿禰・稚城瓊入彦命が東方巡察の折、物部氏一族の従者和珥臣麿呂により同二十七年 □速日命・可美真手命外物部氏遠祖八神を合せ祀り官知物部神社として創祀された。』由緒沿革
 この神社は物部王朝に交代したすぐ後頃に創建されたと思われ、甲斐国の物部族の動向を考えるのに興味深いと感じた。処は盆地を挟んで中道の反対側である。
武内宿祢はイクメ大王に追われている頃なので、定番的に挿入したと察する。稚城瓊入彦命ワカキイリヒコノミコトはヒバス姫を母とするイクメ大王の王子であり、東方巡察の命を受けたのだろう、佐保彦王子らの動向を監視するためだったかもしれない。
『物部一族の和邇臣麿呂』は「額田国造、真侶古」ではないかと思われ、これは和邇氏から物部氏への祭祀などの権限移行を窺わせる。和邇氏は物部一族ではない、磯城王朝、出雲族に近い氏族である。磯城王朝の実務を任されていた臣と思われ、王朝交代してもそのまま"まつりごと”に就いていたのであろう。
27年というのは垂仁朝か。祭神は物部の祖神ニギハヤギとウマシマジ+その他で、まだフツノミタマではないから、石上でなく物部神社なのだ。

第二次物部東征ヤマトでの攻防戦箇条書き  佐保彦王子の視点から (資料が十分でないために事の前後など至らない点はご容赦ください)


・但馬間守軍、ヤマトの南西部を占拠
・佐保彦軍 佐保川に布陣し防衛
・物部イクメ軍 和邇を目指すが進軍できず生駒にとどまる
・武内宿祢 裏切り彦道主大王軍に加わる

・物部イクメ王軍、佐保彦王子と休戦同盟を結ぶ
・イクメ王、佐保姫を妃に迎える 佐保姫を三輪山の姫巫女とする大日霊女貴オオヒルメムチを祀る
・但馬間守、勢力拡大し佐保彦王子と手を結ぶ

・野見太田彦軍、出雲より出陣し但馬間守勢力を淡路島に追い払う

・イクメ軍、彦道主大王と武内宿祢を亀岡へ追いやる

・豊国軍ヤマトに到着 魏の使者に豊玉姫の後継者に豊姫を任命してもらう
・豊彦、イクメ王に佐保姫と離縁するように要請?イクメ王これに応える 
・豊国軍が三輪山占拠、登美家(後に向家)・加茂家を排除、麓に檜原神社を建て豊姫は月読神、若日霊女貴ワカヒルメムチを祀る

・イクメ王、豊彦軍に佐保彦軍の討伐を要請、豊軍近江へ進軍。 
・佐保姫、ホムツワケ王子を連れ近江から尾張に逃げ隠れる 佐保彦は護衛を付ける
・佐保彦王子、甲斐国に撤退。
・豊彦軍、次は彦道主大王を攻める。
・彦道主大王降参し、ヒバス姫を差し出す、イクメ王ヒバス姫を三輪山の姫巫女する

・賀茂田田彦軍 三輪山に進軍し旧領地を奪還 豊彦軍は丹波に後退
・豊姫、豊彦軍が駐留している丹波に避難 豊受神(月読みの神)を祀る

・イクメ王、和邇に石上神宮を、物部王朝をひらく
・イクメ王、出雲富家に豊国軍の排除を要請
・豊国軍、近江へ移動、さらに尾張、下毛野に撤退。
・豊姫、丹波より伊勢、椿大神社の宇治土公家に身を寄せ、月読神を祀るが、イクメ王の刺客により殺害される


 このようにイクメ王は狡猾なやり方で、敵味方の邪魔者を次々と排除してヤマトの大王の地位を得ることに成功する。
ただこの攻防戦を大局的に見ると、イクメ軍の兵力が極めて劣っていたことを物語る。

【故に、石上神宮は武器庫として機能させたのだろう。一説に”石神神宮と中国王朝の武器庫の武器の数量について 前之園亮一”によると数十万から200万点の信じがたい量の兵仗(武器)が石上神宮にはあったと推測されるそうで、物を集めたから物部になったのか?イクメ大王の息子のイニシキ王子は千振りの鉄剣を奉納したといわれているが、王子にまで武器を作らせていたのには、この苦い経験があったからと、私は考える】

更に国王としての権威付けもなく、イクメ王は客観的に評価すれば大義名分もない侵略者にしかすぎない。権威付けのある豊姫を殺害し、次の候補の豊彦を執拗に追い回していることからもその立場が分かる。

 多大な迷惑と困難を被ったのは、彦道主王、佐保彦、豊彦ら、佐保姫そして豊姫である、イクメ王は悪人だったろうか?彼らをうまく利用することによって大王になれたのだから彼らには恩義はあったのだろうか?
【豊彦王の後裔は、「国造本紀」によれば「豊城入彦命孫彦狭嶋命。初治二平東方十二国_為レ封。」して上毛野国造に、「元毛野国分為二上下_。豊城命四世孫奈良別。初定二賜国造_。」して下毛野国造とあり、後に上毛野国造の竹葉瀬ノ君は息長家の養子になり、ホムタ大王として即位させた、後の王権には問題があったにせよ子孫は繁栄したのである。】
佐保彦王子に関しては、彼は第一次物部東征を受けた大彦と少し似たシチュエーションに思う。正統な磯城王朝の王子であり、母親は物部でなく登美家と和邇氏である。
佐保彦軍が豊彦軍に攻められ、始め近江に退いたのは、沙沙貴(佐々木)の一族がいたからかもしれない。